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 さぁっと、一陣の風が吹き抜けて行く。
 木の葉が踊り、心地よい音を鳴らした。

 静かだ。

 左近は目を閉じ、時折こうして聞こえてくる自然の音に耳を傾けていた。
 傍らには、町娘――に扮装させられたままの三成が、深い眠りについている。


 ここは尾張の清洲城。
 福島正則の居城である。

 その一角にある小さな離れに、ふたりはいた。




 ぴくり、と左近の眉が動いた。
 誰かが来る。

 ほとんど音もなく襖が開き、やって来たのは着流し姿の正則だった。
 供の者もなく、一人で現れたその手には、徳利と杯。
「一体、どういうつもりなんです? 正則さん」
 挑発的に見据える左近。しかし全く気にもしない様子で、正則はどかり、と左近の前に胡坐をかいた。
「どういうつもりも何も、領内を見廻っていたら、左近殿に出くわした。そして、その連れの娘が具合を悪くしていた。見て見ぬふりなど出来ぬから城に招いた」
 それだけだ――。
 そう告げる正則の言葉に、左近は軽く眼を開いた。

 ここに眠っているのが町娘などではなく、三成である事はとうに気づいているだろうに。

 左近の内なる声に、気づいているのかいないのか……どちらとも取れぬ表情で、正則が続ける。
「……俺は、三成の奴が嫌いだ。だが、それは対個人の感情で、石田家が憎いのではない。そこに仕える左近殿への恨みもない。ましてや、その娘との間柄など……俺の知ったことではない」

 ――あぁ、そうか。

 左近は、胸の内で呟いた。

 この人も、殿と同じなのだ。
 良くも悪くも素直で、融通が利かなくて。
 ただ、不器用なだけなのだろう。

「人は払ってある。ゆっくりして行け」
 一杯どうだ?と言わんばかりに正則が徳利を振って見せると、左近の口の端が緩んだ。
「有難く頂戴しますよ」


 するすると、左近の喉に酒が注ぎこまれていく。
 甘い香りのする、良い酒だった。
「意外だな」
「何がです?」
「勧めておいて言うのも難だが、もっと、毒を警戒するものだと思っていた」
「しないでしょ、そんなまどろっこしい事」
 こくり、と酒を口に含み、喉に流す。
「俺たちを殺すつもりなら、さっき取り囲んだ時に斬っていたでしょうからね」
「否定はしない。だが……何故、そう思った?」
 言外に、大して面識もないのに、と含ませた正則の問いかけに、ふう、と酒の匂いのする息を吐き出し、左近は答えた。
「……殿がね、前に言ってたんですよ。それを、思い出したんです」
「何と?」
 眠り続けている三成に目をやりながら、左近はゆっくりと口を開いた。
「『市松はいくつ年を重ねても、目の前のものしか見えぬ、考えの足りない猪だ。だが、決して卑怯な真似はしない。毒を盛るくらいなら、たとえ勝ち目は無くとも正面から斬りかかって行くような奴だ』、ってね」
「……三成が、そんな事を?」
「結構、信頼してたみたいですよ。殿なりに」
「……そうか」

 だからこそ、あの襲撃が堪えたのだろう。
 まさか、不意をつく真似をするとは思っていなかっただろうから。
 自分のせいで、卑怯な事をさせてしまったと。
 そう、思っているのかもしれない。

「だが……もう、流れは変わらぬ」
 何かを押しつぶすように、低く、正則が呻いた。
「正則さん。本当は、後悔してるんじゃないですか? あの事件の事……家康殿の思惑に乗ってしまった、事」
「後悔などしておらん」
 ぐい、と酒を煽り、杯を一気に空にする。
「思惑にも……乗った覚えはない」

 じゃあ何故、あの場で殺さずに助けたんです?

 喉元まで出かかった言葉を、飲み下す左近。
 ここで、それを言ってはいけない。
 正則は、三成と気づかぬふりをしてくれているのだ。
 左近の口から洩れたら、その気遣いを無駄にしてしまう。

 ――だからせめて。

「……殿は」
 ぽつりと、左近が口を開いた。
「相当、堪えたみたいですがね」

 一瞬、正則の目が眠っている三成に向けられ――しかしすぐに、左近に移った。
「自分の生き方を変えられるほど、器用な人じゃあないですし。だからといって、正則さん達を憎む事も出来ないみたいですし。その上、被害を受けた側でありながら、事件の責任を負わされて豊臣家から遠ざけられてしまった」
「……何故、あの馬鹿は憎もうとしない。それだけの事をしたというのに」
「だから、ですよ」

 心の行き場を失って。
 身の置き所も奪われて。

「いっそ、全部を綺麗に忘れられれば良いんですがね。あまりにも、殿にとっては傷が深すぎた」
「……忘れるなど、そのような事」
 強く、正則が言った。
「……許さぬ」
 正則の握りしめた拳が、白くなる。

「ほう? 綺麗さっぱり忘れて、自分だけ楽になるのは許せないって訳ですか。随分と、勝手な言い分ですな」
「勝手なのは承知の上よ。……だが、全て忘れて逃げるなど、認める事は出来ぬ。かつての友に刃を向けた、俺達の覚悟を無かった事になどさせてたまるものか」
 たん、と。
 正則は空になった杯を床に打ちつけた。
「俺が敵と認めた男は、そんなに弱くない」

 まっすぐ――。
 前を見据えたその瞳は、深く、澄み切っていた。

「左近殿。佐和山の城に戻られたらあの馬鹿に伝えてくれぬか」
「何と?」

 正則が、ゆっくりと言葉を選ぶように、口を開いた。


 どれだけ恨んでも構わない。
 憎みたいだけ憎めばい。
 
 だから――。

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