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 ふわり、と。
 炊き付けられた香が鼻をくすぐった。

 俺は夢でも見ているのかと思った。

 ここは戦場だ。幾度と無く見てきた風景。見紛うはずもない。
 だが。
 目の前の「それ」は、明らかに異質だった。


 血生臭いこの場所で。
 ひとが、舞っていた。

   *     *     *  

 俺の名は島左近。
 一応筒井家に仕えている身なんだが、羽柴秀吉の援軍として、ここ、山崎に来ている。
 羽柴軍から援軍の要請があったわけではない。むしろ筒井家に要請を出したのは、本能寺で織田信長を討った明智側であったし、それに対して主君の順慶は日和見を決め込んでいた。
 俺は主君に逆らい、独断で戦場に乗り込んだ。
 そこに深い意味なんてもんはない。ただ、主君を討った逆臣を許せなかった。
 それだけの事だ。

 秀吉の大返しが功を奏したか、反逆者・明智の軍は浮き足立っていた。
 しかし、いくら有利な戦とは言え、戦場は戦場。
 まさかこのような場で舞が見られるとは、夢にも思っていなかった。



 年の頃は、二十を少し過ぎたくらいだろうか。
 並大抵のおなごよりも整った顔立ちの、華奢な男だった。

 そいつが手にした鉄扇が翻る度に、敵兵から溢れた深紅が粒となって飛び散り、光を受けて輝く。
 生臭い鉄の匂いに混じって、質の良い香の香りが漂う。

 その様は、まるで。
 戦場に咲く花のようだった。


「綺麗な顔して、大したもんだ」
 俺は俺なりに、奴の武功を褒めた。だが、奴は明らかに不快感を滲ませ、顔を歪めた。
「フン。顔で戦をするわけではない。この程度のこと、戦場にいるのだから当然だろう」

 うっわ、可愛くねぇ。

「島左近、といったか。援軍は貴様の差し金か?」
「だとしたら何ですか」
 高圧的な態度が、鼻につく。
 なまじ顔がいいだけに、尚更だ。
「城でもくれるって言うんですかい?」
 無理だ。判っている。
 その身なりを見ても、時折馬上から指示している様子を見ても、羽柴軍に於いてそれなりに高い地位に就いている事は分かる。しかし、所詮は一介の家臣。
 通りすがり同然の俺に、城を与える事など出来るはずもない。

 俺は何がしたい?
 何が言いたい?

 困らせたいのか。
 怒らせたいのか。

 だが、そいつは困るでも怒るでもなく、意外な事を口にした。
「報いよう。……いずれな」
 いずれ、ね。
 全くあてにならない、つまらない口約束だ。
 そいつが馬を走らせて去っていく細い背中を見送りながら、胸中で息を吐く。
 やれやれだ。
「石田三成……。口は悪いが、噂以上の切れ者のようだ」
 だからと言って、仕えたいと思うシロモノじゃないがね。

 とは言うものの、どうにも、その動向が気になって仕方が無い。
 頭は切れる。文官にしては腕も立つ。
 しかし、どこか危なっかしいのだ。
 まぁ、どこが、と言われても答えようがないんだが。


 山崎の戦場で無事な姿を見かける度に、何故か安堵した。
 
 
 元々勝てる戦だ。後方に立つ事の多い文官がやられる事はまずない。
 そうと分かっていても、目で追わずにはいられなかった。

 その後も、羽柴軍の勢いは衰える事がなかった。
 何という事もなく、逆臣、明智光秀を討ち取って、山崎の戦いは終わった。


     *     *     *


 山崎の戦いが終わった後、俺は筒井家を出た。
 筒井家を継いだ坊主と反りが合わなかったという事もあるが、それだけじゃあない。目的は、他にあった。

 行き先は、近江。

 ここに、あの男はいるはずだった。
 だから、自分がここにいると言う噂が広まるように、派手に遊んだ。
 毎日のように遊郭に足を運び、酒と女を堪能した。

 当てにならない口約束を頼りに、向こうから会いに来るのをただひたすらに待つ。
 自分から会いに行くつもりなど毛頭なかった。
 向こうの出方で、その人となりを判断するつもりでいた。

 忘れられているかもしれない。
 憶えていても来ないかもしれない。
 何故か、そういった不安は無かった。

 ――絶対にやってくる。
 そんな、根拠のない自信があった。


 筒井家を離れたという俺の噂を聞きつけては、次から次へと仕官しろというお侍さんがやって来て、来ては断り……それを何日も繰り返し、いい加減に辟易してきた頃。

 パァン!

 勢いよく遊郭の襖が開け広げられた。
 そこにいたのは、若く華奢な――綺麗な顔立ちの男。
 遊郭になど、来た事もないのだろう。気だるく、いかがわしい空気を全身で拒絶し、場慣れしていないのが見て取れる。
 俺は意地悪く唇の端を釣り上げ、問う。

「また、仕官しろっていうお侍さんですかい?」

 それは、紛れもなく。
 あの時山崎で会った――石田三成その人。
 待ちわびた者の姿が、そこにあった。
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