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慶長3年、8月。
豊臣秀吉――永眠。
天下人となり、栄華を極めたこの男を看取った者は、その偉業と比べてあまりに少なかった。家臣団の多くは、さらなる領土拡大を目論んだ秀吉の命によって、かねてより朝鮮へと渡っていたからである。
(しかし戦況は、芳しくない)
豊臣政権を支える五奉行のひとり、石田三成は屋敷の自室で息をついた。
勝利の目があるのであれば、続ける価値はある。だが、現実にはこれ以上戦を続けても、被害は広がるばかりだろう。
秀吉は死の間際に言った。
幼い秀頼と豊臣家を頼む、と。
まっさらな紙に、さらさらと筆を走らせていく。その運びには、一点の迷いもない。
とは言え、曲がったことを許さない彼の性格とは裏腹に、その文字は殴り書きにも近く、お世辞にも上手いとは言えないものだったが。
「一刻も早く」
胸の内で呟いたはずの言葉が、口をついて出た。
「皆を撤退させなければ」
朝鮮に渡った者の多くは豊臣家との縁が深く、三成も例外ではなかった。だが、先の渡航で酷い怪我を負い、療養を余儀なくされた。それでも、傷口が塞がるや否や奉行として幾度となく渡航し、それ故に負傷から数年経った今でも傷痕は引き攣るように痛むが、気にしている暇などない。
最前線にいる小西行長と加藤清正の二人は、三成にとってはどちらも秀吉の元で育った仲間のようなものだ。しかし、当人同士は犬猿の仲であり、彼らの指揮する隊は、競い合うように前線を押し上げ、補給路も伸びきっている。
もし補給路も退路も断たれて孤立したら、いくら彼らの腕が立つとは言え、無事では済むまい。
いや、彼らだけでなく他の隊も、撤退が長引けばその分だけ疲弊し、命を落とす危険性も増すだろう。
少しでも国力を温存させたまま撤退を成功させ、一枚岩とならねば……どうなるか。
求心力を失い、内部分裂を起こした家の行く末を。
長年、秀吉に付き従って来た三成は良く知っている。
「左近」
三成は、最も信頼する人物のひとりである石田家筆頭家老の名を呼んだ。すぐ近くに控えていたのだろう。静かに襖が開き、長身の男が顔を見せた。
「お呼びですかな?」
「これを」
今しがた書き上げた文を左近へと手渡す。
「そこに書いてある物資を早急に手配し、名護屋まで届けさせてくれ。引き揚げだ。朝鮮から皆を呼び戻す」
「……賢明ですな。大殿亡き今、混乱に乗じて誰が何を仕出かしてもおかしくありませんからね」
「それからもうひとつ」
「何でしょ?」
「俺の旅支度も頼む」
これには、さすがの左近も目を丸くした。
「何言ってんですか。まだ怪我も治りきっていないのに。なりません」
「頼む、左近」
「駄目です」
失礼、と断りを入れ、着物の上から患部に触れた。三成の喉の奥で悲鳴が上がり、脂汗が噴き出す。
「こんな状態で何を言ってるんですか。ここは左近に任せ、殿は治療に専念なさいますよう」
がり、と奥歯を噛みしめ、三成は左近の眼を真っ直ぐに見つめた。
「皆が、異国の地で死と隣り合わせで秀吉様の為に戦っているのだ。それに比べたら、この程度の痛み、大したことはない」
左近は、はあ、とため息をついた。
こうなってしまったら、てこでも動かないのだ。この主は。
「……もっと、お体を大事にしてくださいよ。殿ひとりのものじゃないんですから」
「分かっている」
「家臣団も佐和山の民も、殿を慕い、必要としているんですよ?」
「だから、分かっていると言っているだろう」
「少なくとも、俺にはそうは見えませんがね? ま、無理をしすぎないように見張るのも俺の役目と、とっくに割り切ってますが」
「左近、それじゃあ……」
「駄目と言っても行くおつもりなんでしょう? だったら、左近の目の届くところにいてもらった方が、幾分ましですよ」
* * *
全部隊の撤退が完了したのは、それから4ヶ月後の、冬。
壊滅した部隊は一つとしてなく、子飼い達とも再び生きて顔を合わせる事が出来た。その手腕は、かつて秀吉が行った中国地方からの大返しを遥かに凌ぐ。まさしく「奇跡」ともいえるものであった。
だが……。
いや、やはり、と言うべきか。
久々に会う仲間は、皆一様に疲れきっているように見えた。
それでも良い。こうして、無事な姿を見る事が出来たのだから。
「よく無事に帰ってきてくれた」
小西行長に、加藤清正。もう二度と会えない事も覚悟した。特に小西隊などは、敵陣で孤立し、壊滅の危機にあった所を島津の部隊に助けられたとも聞く。
以前と変わらぬ姿を目の当たりにして、自然と目頭が熱くなる。
「疲れただろう。茶の席を用意させよう。せめてもの労いだ」
「ふん、気楽なものだ。どうやら、内地にいた者には、激戦を潜り抜けてきた俺たちの苦労は分からぬらしい」
「虎……?」
狼狽する三成を一瞥し、清正は左頬の傷痕を指でなぞった。
昔、虎之助と名乗っていた頃に。
佐吉と名乗っていた頃の三成につけられた古い傷痕を。
「……貴様のもてなしなどいらぬ」
吐き捨てるように言い残し、清正は家臣団を引き連れて去って行った。
それに倣うように多くが去り、残されたのは、小西行長と宇喜多秀家だけだった。
「……まぁ、清正なんかの肩もつわけやあらへんし、そんなん反吐が出るんやけど」
ぽつり、と行長が漏らす。
「今のはさっちんに問題あるわ。みんな、疲れ果てとる。はよ帰って寝たいんよ。生きるか死ぬかって、神経すり減らして、ずぅっと戦こうてたんやし」
「そうか……」
「治部殿」
行長の傍らから、声がかかる。
まだあどけなさの残る青年……宇喜多家の当主であり、秀吉の養子でもある秀家だった。
「儂らがかの地で無事でいられたのは、補給を絶やさず、撤退を的確に指示してくれた治部殿のおかげじゃ。じゃが……済まぬ。今は休みたい。この戦、あまりに無駄が多すぎた」
「たぶん、分かっとる奴はさっちんに感謝しとるよ。俺も含めてな。さっちんも休み。ずぅっと、寝ずにやってきたって顔しとるわ」
行長も秀家も去り、そこにはただ、表情を失った三成だけが取り残されていた。
それから、いつ大阪の屋敷に戻ったのかは覚えていない。
気がついたら、いつもの多忙な生活に戻っていた。
いつものように卒なく仕事をこなしていく。
だが、いつものような覇気はなかった。
冬だというのに、ざあざあと雨が降る。
肌を刺すような冷たい雨の中、三成は傘も差さずに佇んでいた。
その瞳はどこか虚ろで、何も映してはいない。
すっと、背後から傘を差し出すのは左近。
「こんな冷たい雨に当たっては、体に障りますよ」
「……秀吉様が亡くなられた」
「存じてます」
「葬儀も出来なかった」
「その分、無事に大仕事を成し遂げたじゃないですか」
「だが、それだけだ」
雨に濡れ、冷え切ったせいか、その横顔は青白く透き通って見えた。
その姿は、ぞっとするほどに美しい。
「後で言われたさ。秀吉様が亡くなられたのに、涙ひとつ流さず淡々と事後処理こなす様はまるで冷血そのものだと。あれだけの恩を受けていながら何も感じないのかと」
ふん、と自嘲気味に鼻を鳴らす。
「そんな馬鹿な事があるものか。秀吉様がいなければ、今の俺はいなかった。秀吉様のお陰で、俺は自分の能力を知り、こうして発揮する事が出来た。秀吉様は、俺を照らしてくれた。陽の光のような方だった」
しかし、太陽は沈んだ。
今のこの空のように。
「左近」
暗い目で、三成は空を見上げた。
「俺を冷たいと思うか?」
「はっ?」
「秀吉様が亡くなられたというのに、未だ、涙一つ流さぬ俺を冷たい奴だと思うかと聞いている」
秀吉の死後から数か月。
あれからろくに眠りもせず食べもせず、働き続けていた。
まるで、何かに取り憑かれたかのように。
そうすれば、何も考えずに済むと言わんばかりに。
今にも崩れそうなほどやせ細り、青い顔をして何を言うのか――。
その内を思うと胸がつまり、左近の目から自然と涙がこぼれる。
「何故、貴様が泣く」
「泣くことすらできぬ、不器用な殿の代わりにと」
「……馬鹿者」
石田三成という男は、元から、表情の乏しい人物だった。
それ故に誤解も受けやすく、しかし、近しい者の前では笑顔を見せることもあった。
だが、この日から。
彼の顔から笑顔が消えた。
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